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渡辺 正人(わたなべ まさと、1916年1月1日 - 1982年11月21日)は日本の騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、競馬評論家。東京都出身。愛称は「ナベショー」。 国営競馬〜中央競馬で初めてフリー騎手(厩舎に所属しない騎手)となったことでも知られる。 == 経歴 == 祖父がフランス人から装蹄技術を学んだという日本人の装蹄師の草分け的存在で、家は以前から馬に関わりがあった。渡辺も馬と関わりのある仕事に進むため、2年制の麻布獣医畜産学校(現在の麻布大学)に進学、馬術部に所属した一方、学校が夏休みになると、父親の知り合いだった目黒競馬場所属の岸参吉厩舎で、厩舎の掃除や馬の下乗りなどを手伝っていた。 翌年の夏休みには、父親に連れられて横浜競馬場に行って実際のレースを見る機会を得たが、そのときレースに騎乗していた阪神競馬場所属の中村一雄騎手の、当時としてはめずらしいモンキー乗りの騎乗フォームに魅せられ騎手になることを決意し、厩舎に赴いて中村に入門を志願して許され、1931年に中村厩舎に正式に弟子入りした。 2年間は厩舎でさまざまな修行を積み、1933年に騎手免許を取得すると、中村厩舎の出張馬房があった横浜競馬場で初騎乗し初勝利を挙げる。師匠譲りのモンキー乗りの騎乗フォームで、騎乗技術の評価はデビュー当時から高かった。 戦後、師である中村一雄は戦時中の競馬中断を機に実業家に転身してしまい、競馬再開後は競馬界に戻ってこなかった。渡辺はこれを機に関東に戻り、中村一雄の弟である中村広厩舎などで騎乗したが、縁故のある厩舎に籍を一応置かせてもらうものの、当時の厩舎は厳しい師弟関係のもと、家族同然のような関係であり、拠り所を失った渡辺は競馬サークル内の「孤児」となって苦労する。 その結果として、持ち前の話術と騎乗技術を活かしてみずから営業し騎乗馬を集めるようになるが、これが後年にいたり、同様にみずからフリーランスとして活動する騎手が多くなった際、これら存在の嚆矢とされることになり「日本競馬初のフリー騎手」として認知されるようになる。ただし、師匠筋である武田文吾調教師(中村一雄の弟弟子)など、渡辺をかわいがった者も少なくなく、1960年の皐月賞では、武田師が最本命馬ながら主戦の栗田勝が負傷で騎乗できず鞍上が空いていたコダマの騎手に起用し、1958年から皐月賞を連覇していた渡辺もこれに応え、皐月賞3連覇という史上初の偉業を達成する。 47歳となった1963年6月限りで騎手を引退。日本中央競馬会では騎手としては初めての引退式を開催して、長年の労苦をねぎらった。引退後は調教師への転身などといった中央競馬の内部に残る道を選ばず、日本初となる元騎手の競馬評論家・解説者へと転身。ホースニュース・馬、のちに報知新聞社で予想や戦評を数多く書き、テレビの『土曜競馬中継』にもレギュラー出演した。 また、1973年、熱狂的なハイセイコーブームの真っ只中の日本ダービーでは、戦前はそれほど注目される存在ではなかったタケホープに目を付けて取材し、主戦騎手の嶋田功から「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」という競馬史に残る発言を引き出したことでも知られる。 1982年11月21日に急性心不全のため、東京都内の自宅で死去した。。亡くなる数日前まで競馬中継にレギュラー出演するなど、最後まで現役であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺正人 (競馬)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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